昭和49年05月10日 月例祭



 此処ん所毎日、奇跡と言うより外に無いおかげを受ける人達のお届けが必ず二つ、三つあります。もうその言わばおかげ話です。本当に、あの本当な事じゃあろうかと思う位な奇跡です。その為には、先ずその、奇跡の現われる前に願いと言うのがあります。今日も久留米から、久留米の歯医者さんですけれども、胆石が出来て大変難儀をしておる。「姉さん、あなたがお参りしておる所にお願いしてもろうておかげを頂くなら、私もお参りをするから、どうでもお願いしてくれんか」と言うて。
 「ならあなたも来なさい、なら行こか」と云う所迄なっとったけども、何かの都合で、出て来れませんでしたけれども、と言うてお願いに来た方があります。石川さんと云う美容師の方です。だから是もやっぱりお医者さんですけれども、今息子さんが、まあ瀕死の重体で休んでおられる、様々とお医者さんの事ですから、あの手この手を尽くさしてもらい、お医者さんも最高の権威のあるお医者さんに掛かっておりますけれども捗捗しくない。お願いに見え間した。
 それは娘さんがお願いに来ました。ほいで丁度その時に、何とはなしに、その何かあの広告の紙の様な物がありますが、それに書かせて頂いたのが、先日佐田さんの所でお話を申しました時の、お歌の文句、歌のそれを書いておる所へ参って来ましたから、その事を申しました。[頼りにならぬ物を頼りにする上の、この頼りなき不安なれか、頼りにならぬ物を頼りにする上の、この頼りなき不安なれか]
 お宅方ではもう金も沢山ある、又沢山の患者さんがおられて先生のおかげで助かったと言うけれどもね、だからと言うてさあ自分の息子が病気になっておるから、やー私が診てやるから安心と言うことは言えない、そして、なら権威のあるおじさんに診てもらっておるけれどもやはり心配であります様に、これをご両親に帰って見せて下さい。本当に頼りになるものと言うのは、神様より他に頼りになる物は無いのですよと、お金も頼りにゃなりません、物も頼りになりません。
 どんなに親孝行の息子がおっても、その親孝行の息子が頼りになると言う事はありません、いや自分の腕だけはと言うその自分の腕ですら、愈々の時には頼りにならない事が分かります。だからこそ不安なのです。だから心配なのです。頼りにならない物を頼りにしているから、愈々の時にはね、頼りにならない物を頼りにする上のね、この頼りなき不安なれかもとなるのです。
 絶対の信、いわゆ、る信心をさせて頂いて、神様を信ずる、神様を頂くと言う事はです。どの様な場合であっても、不安がない。どの様な場合であっても、うろたえないですむ。心配せんで済むと言う事は、イライラする事も要らなければ、腹の立つ事もない。汚い事を言う事も要らない。それは、神様を信じておる人だけに、与えられるおかげであります。神様は「信ずる者を信ずる」と教えらる、神様に信じられておる者のみが、頂けれる境地なんです。
 是からは、一つ頼りにならない物はもう投げ打って、本当に頼りになるか、ならないかを、今日を境に、私がお願いをするから、本当に今まで頼りにならない物を、頼りにしておったと言うて、神様が頼りになるかどうか、信ずる事が出来ないけれども。ここへ参って見えるとそれが本当な事であろうか、と言う様なおかげを受けておる人達の姿信心を進めておる人達の様子を見ると、信じん訳には行けない、おかげに触れる事が出来ると言うて、まあお話をした。
 そう言う願いを毎日お取次さしてもらうから、また毎日はあそれはやっぱおかげになった「はあ、おかげ頂いたね、さあ是からの信心が大事だぞ」と言う様な事になって来る訳である。奇跡がポカッと起こるのじゃない、やっぱり願ってそしてそれがおかげになって来るのです。昨日一昨日でした、福岡の池田さんが毎朝、朝の丁度もう御祈念の済んだ後に何時も、川上さんと一緒にああして熱心にお参りになります。
 娘さんが遠方におられます。娘さんもこの頃御主人も伴うてお月次祭などには、もう遠くからお参りになる様に段々熱心なおかげを頂いて来た。所がその娘さんから電話がかかって、「大変な事が起こったんですよお母さん、今日私はねそのスーパーマーケットに買物に行っておった。そしてハンドバックを盗まれた。自分のハンドバックではあるけれども、中に人から大切な書類を預かっとる物が入っておった。お金は幾ら幾ら位であった。自動車のキーも入っておったから、それもやっぱり困る。
 けれども、何と言うても人から預かっておるその大事な書類が入っとおると言う事が困る。直ぐ合楽にお取次を頂いてくれ」と言うお願いであった。翌日、スーパーマケットの女店員さんが表に出ておった。そしたら一台の車が止まった。そしてからあのー「池田由美子さんに渡して下さい」と言うて、窓からハンドバックを渡したなりに、車はもう走って行った。先日盗難に遭うたそれだった。
 もちろん書類もキーもお金もそのまま入っておった。今朝のお届けに「本当にまあ不思議なおかげを頂いた」と言うてお礼のお届けがあった。ある方はこの頃から田圃を売るお願いがしてあった。お許しを頂いておった。色々幾人の人にも頼んだけれども、なかなか捗捗しく行かない。それを商売にしておる様にお願いしてたけども断られた「売れん」と言うて、ああ困ったなと言わば思ておったけれども、神様にお願いしてある事人が、「まあ買い手があるごたるだから」と言うて来て下さった。
 その日ですねおかげを頂いて、その田圃が直接売れる事になった。と言うのはねちょうど道路に面した田圃ですから、それはその村でも二十五年間もう、売るの売らんのでそのその道が、県から広うい幅の道になるはずのが、二十五年間ごたごたし続けておるところであった。ところがそれがほんのね、紙一重の事でその問題が二十五年振りに解決して売れる事になったから、もう最高の値段で売れる事になった。
 それこそもうそれこそ莫大な言うならばお金を、是はこのまま神様のおかげで出来たのだからと言うて今日夫婦でお供え持って来た。それだけこの人に売ろと仲買人さんが誰々さんに頼んどったつうから言うたらそれだけ高く売れ上げる事が出来たと言うのである。その辺の所の紙一重とてもとてもそのまあ色々話がありますがね、もうそれは本当に紙一重であった。そのもう手付けどんもろとったとかどうかちゅうなら何もかも出来なかった、だからその人は不如意だから田圃でも放そうかと云う事だったけども。
 どうしてそこは田圃そう言う意味で解決して売らなければいけない所なんです。道にかかる所だから。今日は又面白いお届けが幾つもありました。お届けと言うか奇跡的なおかげを受けたと云う話が、けれども、それにはやはりその願いと云う物がなされて、その願いが取次れて、そして私が祈ってその祈りが通ずる。そこでほんならこちらの方ではそのおかげと云う物がです、ね、それを受けとめる信心と云うか、受けとめる力と云うか、それを頂くと云う事が皆さんの信心であり。
 それを受けとめる稽古をするのが信心である。それはほんならどういう子とかと言うと神様を信ずる力。今日ある方が言ってました。「先生、真の道と言うのは大変難しい道ですね」と言う訳なんです。「ほんなこた難しかですね」私も二十何年本当に真の道におりながら、真の道を一つも踏んでない。本当に真の道ぐらい難しか事なかです。所が一度真の道に入ったが最後、こげんみやすい事なか、入るまでが難しか。例えば、私どもなり商売をさせて頂いとってです。
 例えば、教祖様は「十銭の物なら八銭で売れ」とこう仰っておられる。けれども私共は、十銭の物は十一銭に売り上げる事がおかげと思うておった。何十年間信心させて頂いて。とてももうそれはね十銭の物を九銭で売る事ですら実は難しいです。真の道と云う事が、教祖様の教えられた事その事がです。真の道であると私は信ずるです。教祖様が真の道でない道を教えなさるはずはないです。けれども教祖様の教えて下さるその真の道と云うのはです。それはその様に難しい。
 先程幹三郎がお夢を頂いたお話をしておりましたですね。お夢の中に亀が這い上がって来た。皆はその亀をなでなでする様に可愛がっておられるけれども、自分はその亀が恐うて恐うてこたえん。その亀が、確かに亀だけれども一番嫌いな蜘蛛に見える。そこで逃げるけれども、その亀が追掛けてきた。それで愈々断崖絶壁と云う所まで追い詰められた時にです。とうとう自分は下へ落ちたけれども、怪我はしてはいなかったけれども、その子は、「亀が恐かった」とこう言うておる。
 まあ亀と云う事は親先生の事に違いはないと言う風に申しておりましたがです。親先生が言う事はみやすい事なんだけれども、実を言うたら難しいんです。断崖絶壁に愈々追い込まれて初めて頂くと意う、分かると云う事である。そしてそこから飛び降りてみて、ならおかげで怪我もしていなかったと云う事から、おかげを頂かしてもらった。皆さん信心しておるから皆真の道におると言う事じゃない。金光様の信心が如何に真の信心だと言うても、只信心をしておると言うだけで真の信心をしておるとは言えない。
 真の道に出てこそ初めて真の信心が出けるのである。真の人になる事が出けるのである。それを大変に難しい事の様ですけれども、実を言うたらこんなみやすい事はない、こんな有難い事はないと言うのである。真の道に入れば兎に角、もう人間の幸せの条件の全てが足ろうて来るのである。そう云う素晴らしい事だけれども、皆が真の道に出ようとしない。出来らんの恐い。そこで神様はあの手この手を使うて少しずつでも分からして下さろうとする、働きが取分け合楽のお広前では、はっきりしておる。
 私共でもこう云う今の様な教導を受けておったら、まちっと位い早う真の道に出られただろう。真の信心をさしてもらっただろうと思うのですけれど。今朝から北野の秋山さんのお届けです。この頃から光橋先生の従兄弟になる方をお導きして、それがどう云う事かと言うと、息子さんの嫁ごさんを貰いたい。所が中々縁がない。「ほんならお願い致しましょ。直ぐ一つお繰り合わせを頂く様にお願いしときましょうね」と言うたら、それから翌日電話が掛かってきた。して是にこげな嫁さん。
 是こそおかげと思うて思うたとこう云う訳なんです。所がその見にいった気に入った。所がその御主人になる人が病気をした。もうそれこそ途端の苦しみであった。腹痛です。それから、熊の胃とかなんか色々その、腹に良い薬を飲んだけども止まらない。それで嫁さんが、「ほんに先日合楽に行って頂いて来た、御神米が何でん効くちゅう話じゃから、あれば頂きなさい」ちゅう訳で御神米を頂いたら、もう立ち所にその腹痛が止まった。「ほんに神様のおかげちゃ恐ろしか。
 ほんに俺達がお願いしとってから、息子の嫁ごのお願いしとっても、早速電話が掛かって来た見に行った、気に入ったの様なおかげ頂いとりながら、お礼参拝もしとらんけんで、やろう」と言うので又その翌日参って来た。それからまあ色々御理解頂いて帰りました所が昨日です。向こうの方から断って来た(笑)その嫁さんの方気に入っとったばってんか、向こうの方が気に入らんじゃったと言う訳なんです、そしたらどうでしょうかね、あれはやっぱおかげじゃなかたこたる風に見える訳ですね。
 あれは偶然じゃったごたる風に見える訳です。おかげと云う物はそんなにね、もう必ず飛び石伝いと言うのがあるです。その辺の所がね何とも言えん事なんです。まあそう云う様なもたもたの中に、お百姓さんですからあの草刈りに行とった。所がその草刈りでです。草を刈りよったら腰が動かんごとなった。そこであん御神米ば御剣先さんばって言うので、したらまた立ち所に腰が立つ様になったと言うお届けを、今日秋山さんがしておられます。それを聞きながら本当に神様がね。
 一人前の信心信者を育てて下さる為には随分と色々の、あの手この手をお使い下さるなあと云う事です。ですから其処ん所を気付かずにただ一生御利益があるからおかげを受けるからで一生終わって、そして真の道も分からずに、真の道にも出られずに、真の人になる事も精進せずして終わって行くなら、如何に金光様信心しとっても駄目です。そう言う微妙な働きが必ず誰の家にでもあっておるんです。
 おかげと思うたり思われなかったり「その点やっぱこがしこ聞きなさるとこ見るとやっぱ神様ちゃ御座るばい」という様な、そう云う所を行たり来たりさせながら、神様をはっきりとこう把握さして下さると云うか、信ずる力を育てて下さる働きというのがあります。信ずると云う事。私は神様を信ずると言うけれども神様が信じられなければ、真の道には出られないと思う。
 皆さんがね真の今日ある人じゃないけれども、「先生真の道と云うのは難しいもんですなあ。」と成程難しい私も二十何年間商売さして頂いて、真の道を毎日聞きながら真の道に出る事が難しかった。幹三郎じゃないけれど恐かった。本当にそう云う事しとったら、もう食べられんごとなりゃせんじゃろうかと云うような不安があった。神様を信じてない証拠。それでもお願いをすれば御取次を頂けばおかげを頂いていた。そのおかげはただ大したおかげじゃなかったと云う事。
 真の道に出らせて下さる事の為に、神様はそれこそ「神を信じよ信じよ」と言う働きを下さる。信心とは神様を信ずる事。自分の思う様に思う様に何でもして下さるなら、神様はすぐ信じられるだろうけども、人間の思うと云う事はもう、必ずそれは我情である。人間の思うことが思う通りにもし実現したらそれこそ大変なことになるだろうと思う。その辺の所を、信心の心を育てて下さって、その信心の心に相応しい、それに釣り合うた、言わばおかげを下さると云う事である。
 今日安東さんが二度目のお参りをされてから、本当に日々が奇跡と思わなければおられないおかげを頂いて、おかげを頂いた。ここの場合いつも金銭のお繰り合わせの事である。今日来て言われるのに、「親先生、おかげを受けるおかげを受けるということは、先日も本当に目ん玉に指を突っ込む様にちょっと百万円の金が無からにはどうにも出けない事になった時に、御繰り合わせを頂いた」と言う事なんですけれども。その御繰り合わせを頂いたと言う事は。
 もう実にもう此の様な奇跡は無いと云う様な奇跡が起こっておかげを受けた。もう愈々駄目、時間ギリギリもう駄目だ。「もうお父さんもういかんですよ。合楽にお願い参拝と言うか、お礼参拝と言うか、まあ何か分からんけれども、とにかくどうにも出けんのだから、とにかくお礼に出ましょうや」と言うて自動車に乗った、その瞬間おかげ頂いた。(笑)もうその様な話なんです。
 「そしてそれから、開けて来ておるそのおかげと云う物がです。そのなら金銭のお繰り合わせを受けたと云う事が、おかげでは無くて、それからそれに、継ながっておるおかげの広さに、また唯ただ驚くのです」と言うお届けであった。一石を神様が投じて下さると、その波紋と云う物は大きい。只病気が治りました、只金銭の御繰り合わせを頂きましたと云う事だけではない。それからのおかげの方が広いと言うのである。今日もこちらへ出かけに近所の方がです。
 「安東さんまたお参りですか」と、「もうこちらへ見えて幾ら幾らになられますが、まだ一遍も出ませんか」ちゅて聞きなさった。(笑)幽霊が出るお家じゃったからです。ほらもう村内のもんが見ると寄ると触ると、それこそもう草ぼうぼうの生え放題の家が村内にある為に、その村全体が暗かった。この頃は電気が明々と点いて村中の者がもう寄ると触るとその話をしよりますが「もう出る時分じゃろう、もう出る時分じゃろう」ちゅうてその評判しよる。
 所がしっぽろまくって毎日金光様にばっかり参り御座る。それでもうそれこそ耳元でこそっと「まだ出れんですか」ちゅう。(笑)「もう出る所じゃなかですよ、毎日毎日にぎやかでにぎやかで、主人と二人暮しですけれども有難い有難い事です。親先生が行けと仰ったから来たのです。その親先生に任せ切ってからのここへ来たのですから、そんな事はありません」「本当に合楽の金光様っちゃたいした金光様ですな」と言う様な事であったと言うて、今日また改めてお礼が言うておられます。
 そのおかげの一つの事で、ね、そう言う素晴らしい家を手に入れたと言うおかげではなくて、その波紋と言う物は大きいです。それがこちらが信心の心でなからんと、信ずる力を頂いて行く信心を所を頂いて行かんと、それをおかげをおかげと感じ切らない。神様を信ずると言う事はです。私共が真の道に出るか出られないかと云う事で分かる。疑うとる訳ではないおかげを受けておる。だから「神様ちゃ間違いない一分一厘の働きを下さる神様だ」と言うておる間は、まあだ神様を信じておるとは言えない。
 神様を信ずると云う事は、本当に真の道に出た時である。出る為にはです。例えばなら私が商売人の時代にです。「十銭の物を八銭で売れ」と教祖は教えて下さるけれども、それを八銭では売り切らなかった。そんなに難しかったいやそれ所か、一銭高こう売れた方がおかげの様に思うておった。と言う程しに真の道と言うのは難しい。所が一度神様を信ずる事になって、神様の教えをそのままに頂かせて貰うと云う事が真の道に出る事なのだ。教祖様の教えて下さる事を。
 割り引いたり駆け引きやらと云う風に頂かずに、そのままを実行さして頂くと云う事によって、初めて真の道に出る事が出来る。真の道に出たらもうおかげは無尽蔵限りがない。頂いても頂いても是で済んだと云う事の無いおかげに恵まれる道があるのです。それには愈々神様を信ずる事。神様を信ずると云う事は、真の道に出る事である。真の道を歩く事である。信心しよるから真の道を行っておると云う事ではない。信心しておってもほんなら、悪い事をしておってもそれはやはり信心者である。
 またそれでもおかげは受けておるのである。けれども真の道には出ていない。私共が如何にしてです。真の道に出る事が出来るか。今日桜井先生の奥さんが頂いておられるお夢なんかはね、いわゆる兎に角菊作りの名人、まあ言うならば私の事じゃ楼と思う。もう色とりどりの沢山のその菊の花を作るその名人がね、言われておる事が。「何じゃったですかねえ、桜井先生、覚えてられるでしょう。菊作りの名人が言った事で一言」「(桜井先生の声)」「はい、そうそう」あの本当の菊作りのこつと言うのは。
 人間の言う人間の摂理の反対だと云う事を教えられた。それが今朝の御理解でしたよね。 人情をもってすると云う事では無くてです。いわゆる神情をもってする事はもうまさしく反対です。何時の場合でも。人情を使うては、だからおかげにならんとです。本当のおかげに。それを神情になる時にです。今日今朝の御理解を頂いた所の、合楽食堂の中村さんがお届けしております。本当に今朝の御理解を頂いておって何処の方かは知らんけれども、息子さんが初めて職場に出た。
 所がもうその上役の人がもう事毎に言うならば因縁を付けたり兎に角昨日なんか頭ぼこぼこして、「お前はこんな事で」ちこう(笑)大の男をする。「だからもう僕はその堪忍袋の尾が切れた」と言うて帰って来る。それを聞きながら両親がもう自分の方が泣き出すごとなる。親の方が泣こうごとなる。親がその難儀に変わってやるごともある。もうそげんたこなりゃもうそれ辞めろっちしから、こっちが言うごたる。
 けれども親先生に御取次を頂いて行った職場であるから、そう簡単にゃいけんぞ、何か神様の御都合があるのに違いはないぞと言うてです、まあ慰めてまあ辛抱させておるとこう言う話を聞いて。今日中村さんがね、まあ今日参って来てますが、長男の徹美さんが仕事に行く時にお許しを頂いて、もう何回となしにそれこそ男泣きに泣きて「お母さんもう僕あげんとこにはもう勤めん」と言うて事があったけれども。
 「親先生のお許しを頂いて、神様のお願いをしてからの事じゃから、さあ徹美さんここが辛抱のし所じゃろのう」と言うて、辛抱させて頂いておったが、今日成程こう云うおかげを頂く事の為にです。あそこの辛抱があったんだなあと「あん時にもし私が人情でしておったら、今の徹美の幸せはなかった」とこう言うのである。だから人情と神情はもうそんなに違う。神情一筋で行ったから今日のおかげがあった。辛抱も出来たいやその事に対してむしろお礼が嫌だと言うのである。
 人情を捨てなければ、神情は勿論生まれません。確かにその菊作りの名人が言っておる事はです。確かに人情ではない神情である。それは人間の考えとは言わば反対の事であるけれども、そこの所を、信心の稽古さして頂く事によって分かる。そして本当の信心のおかげの世界に出る事が出来る、今日の御理解を、今晩の御理解を以てすると、「真の道に出ることが出来る」と言うのである。信心しておるから真の道におるのじゃない。真の道に出らなければ、真のおかげは伴うて来ないと云う事で御座います。
 今日はお話をしても、時間が足りない様な気がしますけども、どうぞ後の所皆さんが、皆さんの信心を一つ検討して見たい。自分な真の信心しよると思いよったけれども、まあだまあだ真の道に出ていると云う事では無い事を気付かれて、真の道に出る事は難しい。けれども、出らなければならない。出てみて初めて此の様に真の道とは安易な道、喜びの道、おかげの頂ける道であると言う事を、気付かせて頂く事でしょう。
   どうぞ。